いつの時代も愛される定番のカクテルから人気のカクテルまで、幅広いメニューを取り揃えております。
1860年にガスパーレ・カンパリ氏の経営するバー「カフェ・カンパリ」で提供されたのがその始まり。ミラノ産のカンパリとトリノのアントニオ・カルパノ氏によって初めて生産されたスイートベルモットをその材料とすることから、元々は「ミラノ・トリノ」と呼ばれていました。 後に、バーを訪れるアメリカ人に特に好んで飲まれていたことから「アメリカーノ」と名付けられたと言われています。
ドライマティーニの起源は、実のところはっきり分かっていません。 ジンとベルモットを組み合わせた伝統的なレシピは、初期のカクテルに広く見られるスタイルでしたが、グラス一杯のジンにほんのちょっぴりドライベルモットを加えるという現在のレシピはかなり後なってから生まれたようです。 現代のドライマティーニの起源は、ターフクラブカクテル、マティーニまたはマルチネスにあると一般に信じられていますが、この広く愛されるカクテルが、実際にはいつ、どこで、だれによって創作されたのかを特定するのは至難の業です。
20世紀半ばにフランス、ディジョンの市長を務めたフェリックス・キールにちなんで名付けられたカクテル。キール・ロワイヤル(そしてワインベースのいわば兄弟ともいえるカクテル、キール)は、第二次世界大戦直後に、土地の名産であったクレーム・ド・カシスと白ワインを宣伝するのに大きな役目を担いました。 キール氏が考案する以前にも、ワインとクレーム・ド・カシスを組み合わせたカクテルは存在していましたが、地元のブドウ園で生産されていた二流ワインの弱点を埋め合わせる目的で、このレシピが大きく宣伝されたと言われています。
モヒートは、16世紀後半に、悪名高い私掠船の船長であったフランシス・ドレーク卿の乗組員が、ラム酒、ライム、砂糖、ミントを混ぜて薬用目的で作ったのが始まりで、当初は船長の名前にちなんで「ドラケシート」と名付けられたと言われています。 それから300年ほどの時が経過し、1910年頃にはモヒート・バティードという現在のモヒートに非常によく似たドリンクが存在していたという記述が残っています。ハバナのラ・コンチャでソーダ水と共にオンザロックで提供されていたこのドリンクが後に、「ラ・ボデギータ・デル・メディオ」(こちらもヘミングウェイのお気に入りのバー)へと伝わり、モヒートとして世界的に有名になります。
現在ではあまり馴染みのないカクテルですが、ハリー・ジョンソンの『バーテンダーズ・マニュアル』1888年版によると、コブラーは当時アメリカ国内で大流行し、男性にも女性にも最も人気のある飲み物だったということです。 デヴィッド・ワンドリッチ氏は著書『Imbibe』(2007年)の中で、恐らくストローで飲まれた最初の飲み物はコブラーであったであろう、と記述しています。また、北米で氷の商取引が始まってほどなくして、コブラーが普及し始めた記録が残っていることから、氷を加えて飲む初期のドリンクのひとつであった可能性が高いとしています。
ブラッディ・マリーの誕生に関しては諸説あります。 芸能界で多彩な活躍を見せたジョージ・ジェッセル氏は自叙伝『The World I Live In 』(1975年)の中で、自身が1927年にブラッディ・マリーを創作したと主張しています。しかし、創案者としてはより広く知られているフェルナンド・「ピート」・ペティオ氏は、1964年に『ニューヨーカー』誌のインタビューでジェッセル氏の主張を一部認めつつも、「ジョージ・ジェッセルは自分が創案したと言っているが、彼のレシピはウオッカにトマト・ジュースを混ぜただけのドリンクだった」と語っています。
チャールズ・H・ベイカー氏の『The Gentleman's Companion』(1939年)の中で最初に紹介されたジン・フィズ・トロピカルは、「ニューオリンズ・フィズ」(ラモス・ジン・フィズ)からインスピレーションを得て作られました。 ペーカー氏はフィリピン、マニラのパグサンハン川をカヌーで川下りしていた時に、このレシピを考案したと言われています。 ここでは、当時のレシピを少しアレンジして、クリームの代わりにアーモンドシロップを使用しています。
ラスト・ワードは1910年代にデトロイト・アスレチック・クラブで考案されました。 1916年出版のクラブ機関誌『Souvenir Menu』の7月/8月号に、レシピの記載はないものの、ラストワードに関する最初の記述が載せられています。 1920年頃に寄席芸人のフランク・フォガーティ氏がクラブを訪れた際にこのカクテルを提供され、その話を聞いたテッド・ソーシアー氏が『Bottoms Up』(1951年)にラストワードの話を記載したことにより、このレシピは消えることなく今日まで受け継がれています。
ジェリー・トーマス氏の著書『How to Mix Drinks』(1862年)で初めて紙面で紹介されたフィッシュハウス・パンチ。その歴史は1730年へと遡り、スクールキル・フィッシング・カンパニー(西洋で現在で存続している社交クラブの中でも最も古いクラブの一つに数えられている)のメンバーが考案したと伝えられています。
1870年1月4日出版の『The Waukesha Plaindealer』がウィスキー・サワーに関する最初の記述であるという説が多い中、実際にはその数年前、ジェリー・トーマス氏の『How to Mix Drinks』(1862年)でもこのドリンクについて言及されています。 書面に残る参考文献としてはこれが最初のものかもしれませんが、ウィスキー・サワーと同じような形態のドリンクがそれよりも1世紀近く前から存在していたという説があります。とてもシンプルなレシピですから、それも不思議ではありません!
有名なネグローニのいわばいとこにあたると言われていますが、実はネグローニよりも20年以上もの古い歴史を誇るこのカクテル。 ハリー・マケルホーン氏著作の『ABC of Mixing Cocktails』(1925年)によると、カナディアンウィスキー、カンパリ、ベルモットをそれぞれ同量ずつ加えたものがブールヴァーディエのオリジナルレシピとなっていますが、後に出版された『Barflies and Cocktails』(1927年)では、カナディアンウィスキーの代わりにブルボンウィスキーが使用されています。 このレシピを出版したのはマケルホーン氏でしたが、彼はパリに住む裕福なアメリカ人で月刊誌『Boulevardier』の創刊者、また「ザ・ニューヨーク・バー」の常連でもあったアースキン・グウィン氏をブールヴァーディエの創案者としています。
アーネスト・ヘミングウェイに敬意を表し、キューバ、ハバナにある「フロリディータ」というバーで生まれたカクテル。ヘミングウェイはこのバーの常連で、その酒量はスタッフや飲み友達の間でも伝説に残るほどだったと伝えられています。 ヘミングウェイは甘いカクテルはたくさん飲めないと言って、砂糖抜きで強めのドリンクを愛飲していたそうです。
1874年にサミュエル・J・ティルデン氏の州知事当選を祝して、ウィンストン・チャーチル氏の母親ジェニー・ジェロームがニューヨークのマンハッタン・クラブで開催した夜会のために考案されたとの説が広く知られるマンハッタン。 しかし、チャーチル夫人は当時、後のウィンストン卿を身ごもっており、出産に備えて英国に滞在していたという記録があり、その夜会に出席していたという報道もなかっため、この伝説の真偽は確かではないようです。 この話は信憑性には欠けるものの、マンハッタン・カクテルは実際その頃に、マンハッタン・クラブで生まれたことは歴史的な事実とされています。 詳しくはこちら
サゼラックの発祥は19世紀半ばと言われていますが、最初に紙面で紹介されたのはウィリアム・T・「カクテル・ビル」・ブースビー氏著書の『The World's Drinks and How to Mix Them』(1908年)。 その中で、1800年代後半のサゼラック・ハウスの経営者、トーマス・ハンディ氏によるレシピが掲載されています。
考案者はロンドン、シローズ・クラブのハリー・マケルホーン氏。オリジナルレシピは、コアントロー、クレーム・ド・ミント、レモンジュースをミックスしたものでした。 ハリー氏の『ABC of Mixing Cocktails』(1925年)によると、当時のレシピは蒸留酒を含まず、2種類のリキュールがベース。ほとんどのサワースタイルのカクテルに見られるようにバランスを追求する代わりに甘さのレイヤーを作り出すという、これまでの通念に反する手法を用いるものでした。 数年後にマケルホーン氏はパリに拠点を移し、ザ・ニューヨーク・バーに勤務。後に自身でバーを買い取りハリーズ・ニューヨーク・バーと命名しました。 ここで目覚めたハリーは、レシピを変更してクレーム・ド・ミントの代わりにジンを使用するようになりました。 それからしばらくして、ハリー・クラドック氏が著書『Savoy Cocktail book』(1930年)に、ジン、コアントロー、レモンジュースを含んだホワイト・レディのレシピを記載。ホワイト・レディの誕生にマケルホーン氏が何らかの形で関与していることは確かなものの、どちらが実際の考案者かということについては諸説あります。